パーマネント・迷える羊

March goes out like a lamb.

摩利と新吾

 摩利と新吾という漫画がある。白泉社「LaLa」にて1977年~84年まで連載された、旧制高等学校を舞台とした木原敏江による漫画作品だ(wiki調べ)。

 ド・名作だ。

 

 ていうか、この記事タイトルからここにアクセスしている人はおおかた摩利と新吾を読んだ事がおありでしょう。読んだ事ない?...ハイ行った行った!はよ読んでくださいまし。この記事は極力ぼかすもののネタバレ含みますよ。

 さて、読んだ事がある人はわかると思うが、上記のざっとした紹介文にはひとつちょっとした誤りがある。確かに当作品は旧制高校を舞台としている。しかし、それは途中までだ。

 高校を卒業した縞りんご(しましまのリンゴではない。わかるよね?)がドイツへ留学するところから始まるストーリーがこの漫画の後半である。この後半部分ではとにかくやりきれない要素が多いので、摩利が可哀想であんまし好きじゃないって人がいる。そうでなくとも、the・青い春といった感じのスクールライフ部分のほうが好きだなあ、という読者は多いのではないか。

 

 実際、新吾への恋心が明るみになった後の摩利はなんていうか、本当に不憫ではある。だって、新吾は摩利のこと愛してるって言っときながら、体の関係にはならないし、他の女好きになって結婚して子供まで作っちゃうじゃん!泣いていいか?なあ、泣いていいか?しかしでもbut私が新吾に文句を言えるわけでもなし。次元違うし。という話じゃなくて、実際新吾は摩利が自分にくれた愛と同等の愛を返していると思うのだ。

 この物語は、「ゲイ(バイ)がヘテロ男性に片思いする話」とまとめるにはイレギュラーすぎる。こっちの物差しで語るには言っちゃなんだが常軌を逸している。だってゲイ(バイ)側が鷹塔摩利だから。ヘテロ側が印南新吾だから。

 片”思い”は、ある考えかたでは実っていて、また別の考えかたでは実っていなかったのだと思う。というか、摩利と新吾の”愛”への考え方が違いすぎて、どうしたってどうしようもないといった感じ。摩利は、肉欲を伴う愛を新吾との間に求め、心だけでなく体もつながる事で愛はより強固になると感じているのだろう。新吾は、もちろんそうでない。心だけでつながる愛と心と体でつながる愛の間には、文字通りの差しかなく、その間に力関係は生まれない。愛に上下があるとしたら、それは思いの強さのみによって決められるのだと考えていたのだろう。だから、摩利との間に肉欲は必要ないし、そのことは、摩利への愛が他の愛した女性たちに比べ劣っているという事を示すものでもない。

 摩利も新吾も、互いの愛の差異は承知しているだろうが、理解はできないだろうし、愛のあり方という人間の根幹的な考えは曲げられるものでは無いのではないか。こうして、壮絶などうしようもなさが生まれるのだ。摩利は新吾が自分の欲しい愛をくれないことで苦しみ、新吾は摩利を愛しても愛しても満足させてやれない。読者はもう解決口が見つからずただただ身もだえる。しかし、つきつめて本物になると覚悟する摩利の姿の美しさに時たま息をのんだり、ふたりの関係をプラトニックラブと称する新吾についつい頬笑んだりする。

    それぞれの愛し方で、それぞれを愛する。それ自体は何ら珍しいことではなく、事実慈しむべき時間が流れていく。が、その愛し方があまりにも違いすぎるゆえ、どうしようもなさが思い出したように心をうちつける時もある。それでも間違いなく、間違いなくふたりの間に流れる愛が美しいからこそ、摩利と新吾はこんなにも名作なのだ!

 どうしようもなさは多少波打ちながらもどうしようもないまんま、ラストを迎えたのだろう。あのラストは、ふたりがついぞどうしようもないまま、結ばれないまま迎えたからこそあんなに沁みるのだと思う。実際そうであったかはどうでもいい、摩利も新吾も互いが運命の人だと思っていたんだとわかるから。あのシーンは、摩利への救いであると同時に、なによりも読者への救いだったのだ。ドジさまありがとう、ありがとう。あれは愛すべきどうしようもなさが昇華されていくようだったんだ。

 

 ♪青い春です、おのおのがたよ

   と、呼びかけるような口調で始まる寮歌がとても印象的で、これこそ口に出したい日本語。あーおいはるです、おのおのがたよ…胸が締め付けられるような切なさの響きがある。なんとも、なんとも…。

   しかし摩利と新吾の最終回を読んでいると、ついついこの歌詞が頭に浮かぶ。

♪まわるまわるよ時代はまわる 喜び悲しみくり返し…